天正十年(1582年)、武田を討たんとする織田軍は、信長の長子である織田信忠が五万人を率い弘妙寺に現れました。武田信玄の第五子である仁科五郎信盛が城主として治める、高遠城を攻めるためです。そして信忠軍の武将、武蔵守・森長可は、当寺に炊き出しを命じます。然るに時の住職、日藤上人は、「我が主君を撃つ者、これ敵なり。何ぞ糧を与うるを得んや」と、武田を討たんとする織田軍の要求を頑として拒んだのです。その結果、森長可は怒って寺に火を放ちます。しかし日藤上人は、「仏様には罪はない」と、すべての仏様を川向こうの畑に移し守ったのです。当寺から一望できる川向こうの畑は「仏畑」と呼ばれ、時代が進むにつれ「化畑」、現在では転じて「毛畑」と呼ばれています。 二十一世、日照上人の代となった元禄三年(1690年)高遠城主となった内藤候は、日藤上人の忠義を褒め称え、城下に数ある寺のうち、弘妙寺住職である上人のみ、駕籠に乗ったまま城内に入ることを許しました(乗輿登城)。また高遠城内にあった主君の室は下賜され、当寺に移築されています。 |
篤 籠 乗輿登城(じょうよとじょう)に 使われた駕籠が 現在も大切に保管されています。 |